「房総平氏一門」をご存じでしょうか。
房総平氏一門はその名の通り平氏でありながら、鎌倉幕府を開いた源頼朝ともゆかりの深い一族なのです。
スポンサードリンク
房総平氏一門のルーツ
房総平氏一門のルーツは平安時代以前にさかのぼると言われています。
当時、上総、下総、安房の房総三国では、中央から国司が派遣され、それぞれの土地の統治に当たっていました。
しかし当時の国司はあらゆる権限を一手に握る地域の絶対権力者と言っても過言ではない存在でした。
そのため国司の任期が終わっても中央に戻らず、地元で新しい勢力を形成したり、その土地の有力者と結びついてさらなる勢力拡大を狙う一族が現れるようになります。
その中でも「平高望(たいらのたかもち)」がその代表格で、息子たちを有力者の娘と結婚させることで勢力を拡大、武士団を形成していきます。
その後、平将門の乱や平忠常の乱など、平家一門の内部で権力抗争が激化、房総は戦火に包まれることになります。
特に平忠常の乱は三年におよび、房総は甚大な被害を受け、農作物の収穫量は戦乱以前の一千分の一にまで激減、大飢饉なども重なったこともあり、房総三国は荒廃を極めるようになります。
しかし、その中でも平忠常の乱の鎮圧に当たった一族は源氏一門に接近、勢力基盤を築くことになります。
スポンサードリンク
房総平氏一門と源頼朝
やがて房総平氏一門は三つの勢力に枝分かれしていきます。
まずひとつは中央政府であった平家と親しい位置にいたグループ。
彼らは平家の力を後ろ盾として勢力を伸ばしていきます。
そして残りのふたつの勢力が源氏に味方する勢力、「上総氏」と「千葉氏」です。
源頼朝は平治の乱で伊豆に流罪となっていましたが、後白河法皇の子である以仁王の令旨を奉じて挙兵、しかし石橋山の戦いで大敗を喫し、安房に逃げ延びます。
このとき、源頼朝に力を貸したのが「上総氏」と「千葉氏」でした。
元々、「上総氏」は房総平氏一門を束ねる立場にあり、強大な勢力を誇った一族でした。
源頼朝に味方した上総氏は戦で勝利を重ねるなど源頼朝の鎌倉幕府設立に大きな貢献を果たしますが、当主であった広常のふるまいは傲慢で、しかも強力な兵士を抱えていたため、鎌倉幕府設立後は源頼朝に警戒され、結局は謀反の疑いをかけられて粛清されることになります。
一方の「千葉氏」は勢力の点ではもっとも小さなものでしたが、源頼朝からの信頼は絶大で、特に当主であった「千葉常胤(ちばつねたね)」は源頼朝の「義父」としても優遇されてきました。
その千葉氏は上総氏の勢力も組み込み、房総平氏一門を治めることになりました。
その後、千葉氏は鎌倉時代の末期まで下総を中心に強大な勢力を保ちますが、やがて執権であった北条氏と御家人であった三浦氏の対立である「宝治合戦」に巻き込まれ、一族は滅亡してしまいます。
その中の生き残りも、豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡、ここに房総平氏一門の流れは途絶えることになるのでした。
スポンサードリンク