南房総が捕鯨の町だということをご存じでしょうか。
南房総は鯨とともに発展した長い歴史があり、現在も日本で5つしかない捕鯨基地がある町の中のひとつなのです。
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南房総の捕鯨の歴史
南房総の捕鯨の歴史は、鎌倉時代にまでさかのぼるといいます。
研究によれば、発掘によって見つかっている釣り針が鎌倉時代の後半にはクジラの骨を加工したものが多くなっていることや、鎌倉時代の遺跡の多くからクジラの骨が見つかっていることなどから、その時代にはすでに捕鯨が漁業の大きな柱となっていたことがうかがえます。
また公式な文献では、安房里見氏九代目の当主で、安房館山藩の二代藩主であった里見忠義が慶長十七年(1613年)にクジラの尾の皮を伊勢神宮に献上していたという記録が残っています。
このように南房総の捕鯨には長い歴史がありますが、捕鯨の方法は江戸時代に確立されたと言われています。
当時の捕鯨では、旗頭や世話人と言った幹部を筆頭に、漁師はクジラにモリを打ち込む「突き組」、クジラの解体を行う「出刃組」、加工を行う「釜前忍足」などの分業が行われ、その数は総勢600人近かったそうです。
現在でも「突きん棒漁」という、モリを使った漁法が行われていますが、このモリは捕鯨のモリと同じ形であることから、捕鯨から発展したものだとも言われています。
このモリを使うという漁法は房総に独特なものです。
全国的には、捕鯨はモリから網を使うものへと変化していきましたが、房総で獲れる「ツチクジラ」は海の中深くに潜る性質があるため網漁は適さないことから、房総ではモリによる漁が定番となりました。
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またクジラ漁は肉だけを目的にしたものではなく、油は燃料や肥料に、ヒゲは工芸品にと、すべてを無駄なく利用することも特徴のひとつです。
しかし明治初期には捕獲量が減少、実質的な休業に追い込まれましたが、明治四十年に再開、館山、白浜、千倉などに基地を置き、規模は拡大していきました。
戦後になると三陸沖や玄界灘でも操業が行われるようになり、漁獲量はピークに達しますが、昭和40年代中ごろから国際的な反捕鯨運動が起きます。
その結果、昭和62年には商業捕鯨が停止となってしまいます。
南房総の捕鯨の現在
現在、捕鯨基地のある和田では、国際捕鯨委員会の管轄外で、商業捕鯨が禁止されていないツチクジラ漁を国の許可を得て行っています。
シーズンに約30頭捕獲、水揚げが行われ、捕獲されたクジラは和田漁港にある処理場で解体、肉や皮などは地元に近い鮮魚商や加工業者、行商人、一般消費者を対象に直接販売が行われています。
なおこの処理場は一般消費者も見学することが可能となっていて、捕鯨問題に関心のある人だけでなく、食育の一環として地元の小学生などが見学に来ることもあるようです。
近年は国際的な捕鯨禁止の流れがますます強まり、クジラ文化は衰退していると思われていますが、房総では名物である「クジラのたれ」をはじめ、クジラのカツや竜田揚げなどの料理を提供する飲食店も多く、まだまだクジラ料理は地元に愛される存在です。
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