館山のまつり 80を超える祭りがおこなわれる理由とは?

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館山市は非常に祭りが盛んに行われている町です。

人口は5万人弱とそれほど多いほうではなく、東京都23区の世田谷区と比べると、約半分ほどの規模の自治体。

しかしそれほど大きくない自治体ともいえる館山では、毎年各地で80を超えるのお祭りが行われています。

なぜ館山はこれほど祭りが盛んな地域なのでしょうか。

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神社の数が多い

館山でお祭りが盛んな理由としては、まず「神社の数が多い」ということがあげられます。

館山市内にある神社の数は約90社。

先ほど例に挙げた世田谷区の場合には約50社なので、人口比率でいうとその数の多さがはっきりとわかります。

農業と漁業が中心だった時代、神社はその地区や集落を守り、豊かな恵みを与えてくれる大切な存在。

神社の最大のイベントである例祭には、日ごろの感謝を伝え、また次の年の恵みを祈る大切な場となっています。

そのため、神社の数の多い館山では、自然に祭礼の数も増えたということができそうです。

なぜ館山には多くの神社が存在するのか?

それにはいくつかの理由が考えられます。

まず海に面した地域であること。

かつて、新しい存在は常に海の向こうからやってくるものでした。

また海は人間の力の及ばない神秘的な存在でもあり、「板子一枚下は地獄」と言われるように、海の仕事は危険と隣り合わせ。

漁業や海運の無事を祈るため、館山の人たちは神様への信仰心が篤く、多くの神社が勧進されたと考えられます。

地域の結びつきが強い

館山でお祭りが盛んに行われている理由のひとつには、「地域の結びつきが強い」という理由もあります。

館山はもともと漁業や農業などが盛んな土地柄ですが、昔は漁業や農業は村や集落単位で行われるのが主流でした。

つまり、人々の団結力が強ければ強いほど作業もはかどり、漁獲量が増え、農作物も多く収穫できるようになります。

そのため、館山は地域の結びつきが非常に強力な土地柄でした。

明治に入ると、周辺の集落や村の合併がひんぱんに行われるようになります。

江戸時代の終わり、館山にあったのは「館山藩」でした。

これが廃藩置県によって館山県となります。

その後、館山県は木更津県と合併、さらにその後印旛県と合併することで千葉県が誕生します。

このとき、館山の中に作られたのが館山町、北条町、那古町、船形町です。

さらに昭和八年には館山町と北条町が合併、館山北条町となり、さらに昭和14年に館山北条町、那古町、船形町が合併することで現在の館山市が誕生しました。

さらに昭和29年には、安房郡西岬村、富崎村、豊房村、神戸村、九重村、館野村が合併し、館山市は現在の形となったのですが、このように何度も合併が行われると、その場所に住む住民の融和が大きな問題となります。

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住民の融和のため役立ったのが「祭り」

それぞれの地区の神社の祭礼も従来通り行いつつ、新しく生まれた町や市の単位でも祭りを行うことが、新しい住民の結束を固めるため、非常に役に立ったのです。

時代が進み、現代では若者が都会に出ていき、地元が高齢化、祭りの人出が足りないという問題が生まれています。

そういった場合には隣近所の地区から青年団などが応援に駆け付け、祭り文化を維持するとともに、さらに広い範囲での地元意識を強くすることに役立っているようです。

政治的な安定と豊かさ

祭りが盛んに行われた背景として、政治的・経済的な理由も考えられます。

戦国時代から江戸時代にかけて、安房一帯を治めていたのは里見氏ですが、里見氏がこの地を治めていた時代には、安房では大きな戦乱の被害を免れてきました。

大きな戦乱が起きると、住民の移動が激しくなり、どうしても昔から続く神社の祭礼などは途絶えてしまうものです。

しかし、館山周辺ではそのような事態からも無縁でいることができ、昔からの祭礼も受け継がれることができました。

さらに里見氏の時代には館山は城下町として発展していきます。

元々、里見家は七代目の当主である里見義頼の頃までは、現在の富浦の近辺に「岡本城」を構えてその城を本拠地としていましたが、豊臣秀吉が関白となり、戦の世が終わると次は経済的な発展を求める必要に迫られました。

そこで里見義頼が新たな本拠地として選んだのが館山でした。

館山湾は古くから良好な漁港として知られていましたが、さらに館山の北側にある北条は陸上交通の要衝でもありました。

さらに周囲を見渡せることから仮に戦が始まったときでも守りやすい天然の要害となっているため、里見氏はここに新たな拠点である「館山城」を建築します。

城下町には寺院も立ち並び、運河なども整備されて漁業や農業だけでなく、現代でいう第二次、第三次産業も発展、そのため、館山は全国でも珍しい、豊かな大都市として繁栄してきました。

祭りを行うためには、政治が安定していること、そして経済的な豊かさが必要です。

館山は昔からこの両方の条件を満たしていたため、祭り文化が盛んだったと考えられるのです。

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