出典:房州堂
「房州うちわ」は、千葉県南房総市、館山市の特産品で、伝統工芸の一つです。
「房州うちわ」は経済産業大臣指定の伝統的工芸品で、千葉県では唯一「房州うちわ」のみが指定を受けています。
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日本三大うちわ
房州うちわ(房州)
良質の竹の産地であった江戸時代を経て、明治17年(1885年)に、岩城惣五郎が東京から職工を雇い、生産を始め、安房郡の一大物産としたとされています。竹の丸みそのままを活かした「丸柄」と、48~64等分に割いた骨を糸で編んで作られる半円で格子模様の美しい「窓」が特徴
京うちわ(京都市他)
南北朝時代、倭寇によって西日本にもたらされた朝鮮うちわが紀州から大和を経て、京都の貴族たちの別荘地だった深草に伝わったのが始まりと言われます。
中骨と一体ではなく、後から取り付けられる木製の柄が京都のうちわの特徴
丸亀うちわ(香川県丸亀市)
四国の金比羅参りの土産物として朱赤に丸金印の渋うちわが考案されたこと、また、江戸時代中頃に、丸亀藩が藩士の内職として奨励したことがうちわ作りの土台となっています。
丸亀うちわの柄は、竹を割って平らに削ってあるのが特徴です。
出典:房州うちわ 房州うちわ振興協議会
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房州うちわの歴史
明治の廃藩置県まで、房総半島南部を「安房国」といいました。
その一字をとって呼んだ別称が「房州」で、中世以来「関東」の名がおこり、小田原北条氏の頃に起こったといわれる「武州(武蔵国)」や「上州(上野国)」などと同じく、関八州のひとつの呼称です。
最近では、房総と同じ意味で「房州」ともいいます。
「房州うちわ」作りのはじまり
関東でうちわ作りが始まったのは、江戸時代(天明年間・1781~1788年)
当時、房州は、材料の竹を送り出す産地でした。
「地方資料小鑑」(明治44年千葉県発行)によれば、房州でのうちわ生産は、明治10年に那古町(現在の館山市那古)に始まり、付近の町村に普及したとされます。
「房総町村と人物」(大正7年千葉県発行)では、明治十七年に、岩城惣五郎(那古町)が東京から職工を雇い、生産を始め、安房郡の一大物産としたとされています。
大正12年の関東大震災で、日本橋堀江町河岸のうちわ問屋の大半が大火に見舞われたのです。震災後、竹の産地に近く、東京への船便があった那古港にも近接した船形町(現在の館山市船形)に問屋が移住し、生産を始めました。
そのことがきっかけとなり、房州でのうちわ生産が拡大していったのです。
そして、日本三大うちわと言われる「房州うちわ」の産地となったのです。
房州うちわの作り方
工程の一部をご紹介しています。
全ての作業が手作業で行われます。
工程は全部で21工程あります。
1 竹選別→2 皮むき→3 磨き→4 水つけ→5 割竹(さきだけ)→6 もみ→7 穴あけ→8 編竹(あみだけ)→9 柄詰(えづめ)→10 弓削(ずげ)→11 下窓→12 窓つくり→13 目広拾い→14 穂刈り→15 焼き→16 貼り→17 断裁(だんさい)→18 へり付→19 下塗り→20 上塗り→21 仕上げ
とてつもない手間がかかっています。
原材料
原料の竹は良質の女竹(めだけ)が使われます。
虫が付かず肉が締まっている10月から1月の寒い時期に南房総一円から伐採されます。
うちわには、一定の太さの部分が必要なため、1本の長い竹から取れるのは2,3本分ほどです。竹の皮をむき、水洗いして磨き上げます。次に、竹を割り、柄の部分に穴をあけ、糸で骨を編んでいきます。
柄を一定の寸法に切ったら、空洞に柳の枝を詰め込みます。
さらに、柄にあけた穴に弓を差し込み、編み終えた糸の両端を弓に結びます。
円弧状にしなった弓とともに「窓」ができ、扇形にひらいた骨組みが完成します。ねじれをとるために目拾い、穂刈りをし、骨の曲がりを直すためにコンロで焼きます。
整った骨に、紙や布を両面から貼り、はみ出した骨を裁ち落としていきます。そして、ふちとりの紙で周囲を整え、胡粉を柄尻に盛り、丸みを持たせます。最後に、ローラーできっちりとおさえて仕上げます。
出典:房州うちわ 房州うちわ振興協議会
現在、うちわを使うことがほとんどなくなりました。ただ、こういった工芸品をなくしてしまうというのはとても寂しいです。
房州うちわなどの工芸品のうちわは、とても繊細に作られています。お部屋のインテリアとして、部屋の一部としてお使いいただく方法もあります。
絵画にも描かれているほど、海外の方にも人気が高いようです。
房州うちわをお買い求めの方は、ぜひ南房総へお越しください。
通販でも、購入することができます。
楽天
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