海とヤシの木、そして温暖な気候など、緯度がほぼ同じということもあり、南房総はアメリカのカリフォルニアとよく似ていると言われています。
しかし、南房総とカリフォルニアには自然だけでなく非常に深いつながりがあります。
実は明治の時代、南房総から海を越えてカリフォルニアで大成功した日本人がいたのです。
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あわびとカリフォルニア
明治30年、南房総出身の人物が海を渡り、アメリカ・カリフォルニアに到着します。
出典:ディスカバー・ニッケイ
それが小谷仲治郎。
仲治郎は水産講習所(現在の東京海洋大学)出身で、干しあわびを製造する家に生まれた人物です。
当時の南房総ではあわびのエサである海藻が病気によって全滅、しかも運悪く発生した火事により、仲治郎は家を失ってしまいます。
そこで新天地を求め、仲治郎は海を渡りアメリカカリフォルニア州にたどり着きました。
なぜカリフォルニア州だったのか。
それは、カリフォルニア州のモントレーには豊富にあわびが生息していたためでした。
当時のアメリカではアワビを食べる習慣はなく、巨大なあわびが数多く獲れるという状況だったのです。
そこで仲治郎は先にアメリカにわたっていた兄の源之助とともに、アメリカでの干しあわび事業に着手します。
事業は順調に進みますが、当時は外国人労働者であった日本人に対するアメリカ社会の視線は厳しく、日系人の排斥運動も行われ、日本人のあわび漁への規制も次第に高まっていきます。
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そんな中でも小谷兄弟はアメリカ人投資家であるA.M.アランの協力を得てあわびの缶詰の加工販売を開始。
さらにドイツ人のレストランオーナーであったポップ・アーネストがあわびのステーキを開発を行うなどの追い風もあり、あわびはアメリカでブームとなっていきます。
その後、小谷兄弟のあわびはカリフォルニアで七割以上のシェアを獲得するなど大成功を治めます。
しかし、その後も対日感情は悪化。
大々的な反日キャンペーンが行われ日本人の移民が制限、南房総からカリフォルニアに移住することは不可能となっただけでなく、太平洋戦争の開戦によってすべての日系アメリカ人は強制収容所に送られることになりました。
小谷兄弟が築いたあわび事業は完全に終焉を迎えることになったのです。
戦後、アメリカでは日系人によるあわび事業は再び評価されるようになり、レーガン大統領によって日系人強制収用に対して公式な謝罪が行われると、日系移民100周年を記念して小谷兄弟があわび事業を行った居住地の跡地を「コダニビレッジ」と命名。
州立公園と認定されるなど、小谷兄弟は脚光を浴びるようになります。
しかし、日本では小谷兄弟の名前は忘れられていきます。
というのも、南房総には終戦直後アメリカ軍が上陸。
短期間の軍政を敷いた時期がありました。
その上陸について、南房総の地理の情報提供を行ったのが収容所にいた日系人である可能性があり、地元に残った人たちは周囲かはスパイと疑われることを避けるため、カリフォルニアにわたった日系人とのつながりを隠し続けていたのではないかという指摘もなされています。
現在では、南房総でも小谷兄弟の功績が称えられるようになっただけでなく、カリフォルニア州モントレーとの交流も復活、平和の礎を築いています。
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