出典:ブリヂストン美術館
「青木繁」は明治を中心に活動した日本の洋画家。
明治期の日本絵画を代表する画家であり、代表作といえる「海の幸」は美術の教科書などで誰もが目にしたことがあるはず。
そんな偉大な画家であった青木繁は、実は館山とは非常にゆかりの深い人物なのです。
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青木繁とは?
出典:wikipedia青木繁
青木繁は福岡県の久留米出身で、旧久留米藩士の長男として生まれました。
幼いころから天才と言われ、明治32年、16歳のとき絵を志して単身で上京、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、画壇の重鎮であった黒田清輝から指導を受けます。
当時の日本美術界は大きな転換期にあり、東京美術学校に洋画科が設置されたのも明治29年と、新しい機運に満ちていました。
そんな場所で青木繁は才能を発揮し、明治36年には芸術振興のために設けられた「白馬会」の展覧会に「黄泉比良坂」などの作品を出品、第一回の「白馬賞」を受賞します。
この受賞によって青木繁は世間の注目を集めるようになりました。
青木繁と館山の縁
出典:青木繁「海の幸」記念館
東京美術学校を卒業した青木繁は、いよいよ画家への第一歩を踏み出します。
美術学校の卒業生の多くは故郷に戻り美術教師の仕事などに就くのが通例となっていましたが、自らの絵を追求する青木繁はそれを拒否。
新天地を求めて放浪の生活に入ります。
そこで青木繁が訪れたのは館山市の布良海岸でした。
以前から布良海岸の美しい風景について聞き及んでいた青木繁はこの場所で新しい絵の製作を開始します。
それが青木繁の代表作ともなる「海の幸」でした。
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当時、布良ではマグロ漁が盛んに行われ、布良は空前の好景気に沸いていました。
そのため、布良には活気が満ちて、祭礼などもにぎやかに行われていました。
青木繁はそんな祭礼の行列を「海の幸」の中に織り込んだとも言われています。
青木繁は2ヶ月の滞在で大作「海の幸」を完成させ、展覧会に出展します。
「海の幸」は画壇だけでなく、新聞や文壇などからも注目を集めて、大きな話題となります。
その後「海の幸」は西洋画としては日本で初めて国の重要文化財として指定されるなど、青木繁は人生の絶頂期を迎えます。
しかし、名前こそ知られるようになりましたが、画家としての生活は下降線をたどるようになります。
当時の油絵は賞を受賞したものでも購入されることはなく、そのため絵具や絵筆などにも困るようになります。
また、実家の負債が明らかになるなどの不幸が重なり、そんな中で描いた新しい作品も、画壇から無視され、ついには結核を患うようになってしまいます。
しかし、持ち前の放浪癖と激しい気性から治療を拒否し、とうとう28歳の若さで命を落とすことになります。
日本を代表する作品を描きながら、若くして亡くなった天才画家である青木繁。
もしかすると布良で過ごした2か月間が、彼にとっては最も充実した幸せな時間だったのかもしれません。
アクセス
住所:千葉県館山市布良1256
TEL:0470-22-8271
開館日
毎週土・日曜日(お盆・年末年始除く)
平日 10名以上の団体で事前予約のみ
開館時間
4~9月 10:00~16:00
10~3月 10:00~15:00
入館料
一般 200円
小中高 100円
交通アクセス
電車・バス
内房線館山駅西口下車~JRバス関東「安房白浜行き」~安房自然村下車 徒歩25分
車
富津館山道富浦IC~青木繁「海の幸」記念館・小谷家住宅(約30分)
※安房自然村バス停周辺に駐車可能
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