
「里見氏」といえば館山・南房総とは非常にゆかりの深い一族です。
全国的には曲亭馬琴(きょくていばきん)の「南総里見八犬伝」のモデルになった戦国武将ということで有名ですが、里見氏は今現在でも、地元の人に愛される存在となっています。
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里見氏の来歴
今でこそ、里見氏といえば安房の国というイメージが定着していますが、実は里見家のルーツは安房の国ではなく、現在の群馬県、当時の「上野国」と言われています。
鎌倉時代にこの地を治めていた新田氏の中の一人が「里見」を名乗り、その中で安房に移り住んだ「里見義実」が安房里見氏の初代と言われています。
室町時代の後期は足利将軍家と関東管領の上杉氏が対立していた時代。
その中で初代である里見義実は将軍方について戦功をあげたことにより、安房の国の国主として認められることになりました。
その後、戦国時代に入ると里見氏は関東で勢力を誇っていた上杉謙信や武田信玄などと同盟を結び、安房の国を守っていきますが、豊臣秀吉が関白となるといち早く恭順の姿勢を示します。
このころの当主は里見義頼。
時代は戦から経済の世の中に変わることをいち早く見抜き、周辺の港などを整備するなど現在にも続く南房総の発展の礎を築いた人物です。
その後、義頼の後を継いだのが里見義康。
義康は秀吉の命に従い、北条氏がこもる小田原城攻めに参陣します。
その際、秀吉の命に背いて北条軍と戦ったことをとがめられ、上総にあった領地を没収されてしまいます。
その結果、里見氏は新しい城を作る必要に迫られ、そこで誕生したのが館山城です。
領地を没収されたことは里見氏にとって不幸な出来事ですが、この時、館山城が誕生し、港での交易と城下町での経済が発展したことが、館山の現在につながっていきます。
その後、義康は朝鮮出兵や関ケ原の戦いで戦功を重ね、安房九万石と鹿島三万石を合わせて十二万国の大大名となっていきます。
しかし、繁栄のときは長くは続きません。
里見義康が三十一歳でなくなると、十歳で後を継いだのが里見忠義でした。
里見家の重臣は政略結婚によって里見氏の精力を保とうと考え、忠義の妻として徳川家の重臣である大久保忠隣の娘を迎えますが、しかし江戸での政変により大久保忠隣は失脚、それに伴う形で里見氏は安房の領地を没収、忠義は二十九歳で亡くなり、これにより里見氏は断絶となり、長い歴史に幕を下ろすこととなりました。
「里見八犬伝」とのかかわり
曲亭馬琴の戯曲だけでなく、映画やドラマ、舞台などにリメイクされて高い知名度を誇る「里見八犬伝」ですが、実はこれは曲亭馬琴による完全なフィクション。
しかし、その中には現実とのかかわりもあります。
物語の中で活躍する八犬士ですが、これは里見忠義が領地を失い亡くなったとき、忠義に殉死した八人の家臣「八賢士」に由来しているという説もあります。
そのほか、現在も館山や南房総周辺には、「里見八犬伝」にゆかりの深い場所も多く、そういった視線から周辺の観光地を巡ってみるのも楽しい経験になるかもしれません。
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