南総里見八犬伝 実はドラゴンボールのきっかけになった物語

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「南総里見八犬伝」は、江戸時代の後期に曲亭(滝沢)馬琴によってあらわされた長編伝奇小説です。

当時から大ヒットしたこの物語は、その後の日本の文学や芸術、文化など各分野に大きな影響を与えただけでなく、安房国を治めた「里見氏」の名前を全国に伝えるきっかけともなりました。

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南総里見八犬伝のあらすじ

「南総里見八犬伝」の舞台となっているのは室町時代後期。

室町幕府と、関東の有力豪族であった結城氏との間で起きた「結城合戦」に参加した里見義実は、戦いに敗れて安房に逃げ延びます。

そこで安房四郡の中の半分を治める滝田城主・神余光弘が、家臣の山下定包に討たれたことを知ります。

その後、山下定包が行っていた暴政に苦しむ民衆の姿を見た里見義実は兵を挙げ、山下定包を殺害、安房の実権を握ります。

その際、かつては神余光弘の愛妾で、現在は山下定包の妻となっている玉梓(実は山下定包をそそのかし、神余光弘を殺害させてたのもこの玉梓です)を斬首に処すのですが、玉梓は里見の子孫を呪う言葉を口にして命を落とします。

その十六年後、里見義実の領地に隣国から侵略の手が延ばされます。

城を敵に囲まれた里見義実は、飼い犬の八房に「敵の首を取ってきたら娘の伏姫を与えよう」と口にします。

もちろん里見義実は冗談のつもりだったのですが、しかし八房は敵の大将の首を持ち帰ります。

里見義実は他のものを褒美に差し出しますが、八房は納得しようとせず、あくまでも伏姫を求め、伏姫も「相手が犬であっても君主が約束を破るのは道に反する」として、八房とともに山にこもり、経文を読む日々を過ごすようになります。

やがて伏姫は、八房が玉梓の呪いを背負っていたこと、伏姫の読経によってその呪いは解消されたものの、伏姫の中に八房の気が入り、子どもを宿したことを知らされます。

それを恥じた伏姫は割腹、その傷口から白い八つの球が飛び出し、八方に散っていくのでした。

その八つの玉には「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の人が生きる上で重要となる八つの得が刻まれていました。

その玉を持って生れて来たのが「八犬士」です。

不思議な縁に結ばれた八犬士は思わぬところで出会いながら、それぞれの特技を生かして活躍します。やがてその八人が揃ったとき、彼らは里見家を襲っていた危難と立ち向かうことになるのでした…。

というのが南総里見八犬伝の主な物語ですが、南総里見八犬伝は98巻106冊に及ぶ長大な物語。

しかし、個性的な八犬士の活躍や、勧善懲悪のストーリーは現代でもまったく古さを感じることもなく、非常に読みやすい物語です。

簡略版なども出ているので、興味がある人は一度実際のものを読んでみるのをオススメします。

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「南総里見八犬伝」が与えた影響

発表当時、南総里見八犬伝は爆発的な大ヒットを記録、もっと続きを読みたいという読者の声に答えたことが、これほど長い物語になった原因だとも言われています。

しかし明治に入ると、坪内逍遥などの知識人は南総里見八犬伝に対して「化け物ばかりが出てきて人間が描かれていない」といった批判を展開、南総里見八犬伝は古い時代の文学で、近代人が読むものではないというレッテルを張られます。

ちなみに「面白い小説は文学ではない」という考え方は、この時の坪内逍遥の意見に根差しているとも言われています。

しかし、面白い読み物を求めるのは庶民の常。

南総里見八犬伝はその後、復権。

特にNHKで昭和48年から放送された人形劇は子どもの心をしっかりつかみ、大人気を集めます。

それからも、映画やマンガ、ゲーム、舞台など、南総里見八犬伝は何度もテーマとして取り上げられる歴史的な作品となりました。

日本だけでなく、世界にも知られているあの「ドラゴンボール」も、着想のきっかけは南総里見八犬伝だったとも言われています。

南総里見八犬伝はなぜ「南総」?

南総里見八犬伝には「里見義実」や「結城合戦」など、実在した人物や史実が盛り込まれていますが、物語のほとんどはフィクション。

曲亭馬琴による創作です。

では、南総里見八犬伝の舞台はなぜ「南総」だったのでしょうか。

実はこの点に関して、はっきりした理由は見つかっていません。

ただし、曲亭馬琴が南総里見八犬伝を執筆した当時、里見氏がすでに存在しなかったことが理由のひとつとして考えられます。

実際に存在する大名をテーマとして取り上げるのは、いろいろな点で遠慮があるため、すでに家名断絶となっていた里見氏は、題材としては最適だったのではないでしょうか。

また、里見氏は関東の外様大名の中ではもっとも大きな領土を持ち、海と陸の交通の要を抑えた存在でしたが、それを危険視した徳川幕府によって、十代目である里見忠義の代に取り潰されてしまいます。

里見忠義は領民や家臣を大切にした人物と言われていて、その里見忠義が若くして亡くなったときには、その遺徳をしのんで八人の家臣が切腹して主君の後を追いました。

その八人の戒名にそれぞれ「賢」の字が含まれていたことから、彼らは武士の道を全うした「八賢士」と呼ばれるようになったのですが、おそらく曲亭馬琴は不運にして取り潰された里見氏と八人の家臣の物語に感銘と同情を感じ、それに着想を得て南総里見八犬伝を執筆したのではないかとも考えられます。

現在でも南総里見八犬伝のファンは多く、南房総の各地にはゆかりの史跡なども残されて、房総とは切っても切れない存在となっています。

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