「館山洲崎神社」は、安房神社と並ぶ館山のパワースポットとして知られています。
安房神社が男性向きのパワースポットだとすると洲崎神社は女性向きの神社です。
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目次
由緒正しいパワースポット
洲崎神社に祀られている御祭神は天比理刀咩命(あまごひりのめのみこと)と言われる女神様。
洲ノ神(すさきのかみ)という別名もあり、天太玉命(ふとだまのみこと)の妻とも言われています。
天比理刀咩命が有名なのは神話の中の天岩戸の物語。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に心を痛めて天岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみのかみ)を引き出すため、岩戸の前で踊りを踊った女神が天比理刀咩命です。
そのため、洲崎神社は芸道のほか、結婚や恋愛、安産などにご利益があると言われています。
洲崎神社が開かれたのは807年、神武天皇の命を受けた天富命(あめのとみのみこと)が房総半島に上陸したとき伝えられ、全国的に見ても非常に由緒のある神社です。
リベンジにもご利益が
さらにこちらの神社は「再起」についてのご利益があることでも有名です。
平清盛との戦いに石橋山の合戦で敗れた源頼朝は海を渡り安房の国に逃げ延びていたのですが、そのときに身の回りにいたのは家臣が数人。
周りの人間は誰もが源氏の再興をあきらめたとき、源頼朝が再起を祈願して訪れたのが洲崎神社と言われています。
その後、源頼朝は地元で有力な豪族だった千葉常胤(ちばつねたね)などの協力を集めることに成功、見事再起を果たし平家を滅ぼし、鎌倉幕府を打ち立てます。
この逸話は広く知られるようになり、鎌倉時代から戦国時代にかけて、洲崎神社は戦勝祈願のご利益があるとしても知られていました。
また、源の頼朝が再起に成功したとき、お礼として洲崎神社に東京・神田の土地を奉納したことから、江戸の町の基礎を作ったことで有名な太田道灌が作った神田明神も元々はここ、洲崎神社の分社だという説もあるほど、江戸時代から参拝の人を集めています。
現在でも、一度何かに失敗したことがあっても、再びの挑戦を願う人にとっては、洲崎神社は非常にご利益のあるパワースポットとして知られています。
SNS映えするスポット
最近では洲崎神社を有名にしているのは「富士見鳥居」です。
洲崎神社は山の中腹に作られた神社で、お参りするためには長い階段を上らなければなりません。
しかし、その分眺めも非常にいいことが知られています。
中でも「富士見鳥居」からは東京湾の海を一望することができます。
それだけではなく、天気のいい日にはなんと海の向こうの富士山を鳥居の中に見ることが可能!
鳥居の中の富士山をSNSなどにアップすれば、幸運が訪れるとも言われています。
さらに洲崎神社の中には「神石」という石があり、こちらも有名なパワースポット。
こちらは裂け目がある「吽形」の石とされ、安房口神社に安置されている「阿形」の石と合わせると「阿吽」となり、この二つが東京湾の海上交通の安全を守っていると言われています。
そのため、ふたつの石をお参りすると事故に遭わないようになるとの言い伝えもあります。
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境内案内
御神石
浜に祀られている長さ2.5mの丸みを帯びた細長い石。
竜宮から洲崎大明神に奉納された二つの石のひとつとされ、もうひとつは三浦半島の浦賀の西にある安房口神社にあり、先端い円い窪みがあることから「阿形(あぎょう)」に、洲崎の石が口を閉じたように裂け目があることから「吽形(うんじょう)」とたとえられ、狛犬のように東京湾の入り口を守るように祀られている。
社名碑
「一宮洲崎大明神」とあるのは、二殿一社とされる式内社の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)神社が、洲崎神社を拝殿として一宮、洲宮神社を奥殿として二宮とされ、別称「安房一宮」として尊崇されてきたことによると考えられている。
碑は文政3年(1820年)に吉祥院の別当(べっとう)賢秀が設置した。
鳥居の大注連縄(おおしめなわ)
高さ約15mの神明鳥居に、長さ13mの大注連縄(おおしめなわ)がかけられている。
大注連縄は、毎年1月8日の神社替えに氏子たちの手により作られる。
大注連縄の中央に祀る木札には「久那戸大神(くなどのおおかみ)」とある。
巷(ちまた)に立って災禍を防ぎ庶民を守る道祖神であると伝えられている。
敬神風化の碑
関東大震災(大正12年(1923年))と昭和大津波(昭和11年(1936年))の両度の大震災にも屈せず、地区民が一丸となって、洲崎神社と栄ノ浦(えいのうら)・間口(まぐち)2漁港の復旧に尽力したことの顕彰碑である。
総高3.5mの粘板岩。
題字は玄洋社社主頭山満(とおやまみつる)の筆、撰文と書は明治大学教授で伝説学者の藤沢衛彦(もりひこ)。
石灯籠
随身門(ずいしんもん)前に一対で置かれている。
火袋(ひぶくろ)は日月型に開けられている。
台座に寛政2年(1790年)7月建立を示す文字が見える。
厄祓板
148段の急勾配の石段。
階段の中断と最上段の両脇にある2対のコンクリート柱は、御浜出する神輿が急勾配の石段を昇降する際に、神輿を支える危険防止の支柱である。
急峻な石段を敬虔な気持ちでのぼり参詣することで、厄落としができると命名された。
拝殿
正面の扁額(安房国一宮洲崎大明神)は文化9年(1812年)の奉納。
房総の海岸警備の任にあった白河藩主松平定信の書である。
本殿
神社建築としては唐様三手先(からようみてさき)の組物を用いているのが珍しい。
木鼻や欄間の彫刻も見事で、江戸初期の本蟇股(かえるまた)も見られる。
延宝年間(1673年~1680年)の造営とされるが、その後の大規模改修が見られる。
市指定文化財。
稲荷神社
祭神は宇迦乃之御霊命(うかのみたまのみこと)で、五穀豊穣の神とされている。
鳥居の右手に観請したことがわかる。
洲崎神社の自然林
本殿裏の御手洗山(みたらいやま)には、スダジイ・ヤブニッケイ・タブノキなどの常緑樹が自然林を形成している。
昭和47年に県の天然記念物に指定されている。
一本のすすき
観音堂前の一群のすすきのこと。
源頼朝が洲崎神社へ参詣したおり、昼食時に箸の代用にしたすすきを地に挿し、「わが武運が強ければここに根付けよ」というと、のち数茎に根付いたという伝承があり、土地の人は「一本のすすき」と呼んでいる。
森田三餘育行徳の墓
森田行徳(ゆきのり)は洲崎の人で、三餘(さんよ)はその号である。
江戸末期から明治の初めにかけて自宅で寺子屋を開き、地域の子弟の教育に情熱を捧げた。
この墓は、師匠の徳を偲(しの)んで、教え子たちが明治28年(1895年)に建立した。
三餘の法名は楽誉水山仁寿居士。
筆塚句碑
「菅(すげ)の間の蝶や二葉を植し棕櫚(しゅろ)」とある。
作者「素水」は洲崎の渡辺家に生まれ、館山の医師鈴木正立家を継いだ人。
文政5年(1822年)に筆塚として建立した。
独鈷水(どくこうみず)
観音堂の左裏手の山すそに、役行者の霊力で湧いたという湧水(わきみず)があり、早天(かんてん)にも涸れることがないといわれている。
手水石
上面がひょうたん型にくりぬかれている。
施主は「吉郎兵衛・清五郎・九蔵・堅秀」とあり、安永7年(1778年)4月の奉納。
観音堂
鬱蒼とした樹林を背に屋根に金色の宝珠が輝き、下見部分が朱塗りの観音堂。
本尊の十一面観音は安房国札観音の三十番札所で、ご詠歌は「観音へのぼって沖をながむれば上り下りの船ぞ見えける」。向拝に初代後藤義光の師後藤恒俊の彫刻が施されている。
子育て地蔵
右手に幼い子を抱き、左手に宝珠を捧げ持つ半跏(はんか)地蔵尊。
台座に願主・世話人各2人の名があり、寛政9年(1797年)の建立とある。
光明真言百万遍塔
光明真言は真言密教の呪文で、これを何万回も唱えると一切の罪業(ざいごう)が消滅するという。
この塔は文化8年(1811年)に近間孝治が百万遍を達成した記念もので、裏面に「観音の祈誓(きせい)をここに立置て、南無阿弥陀へと廻るすす玉(じゅずだま)」という歌がある。
役行者の岩屋
境内の岩肌に掘られた岩窟に役行者の石像が祀られている。
奈良時代の人で修験道の開祖。
妖術で人を惑わすとして伊豆大島に流刑になった。
社伝では、養老(717年)大地変がおき境内の鐘ヶ池が埋まって鐘を守っていた大蛇が災いをおこしたとき、祈祷をして大蛇を退治したのが役行者としている。
海上歩行や空中歩行の神通力を持つことから足の守護神とされ、岩屋の前には多くの履物が奉納されている。
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アクセス
洲崎神社
所在地:千葉県館山市洲崎1344
TEL:0470-33-2800
宮司自宅:南房総市富浦町原岡963
mail:sunosaki_jinja@yahoo.co.jp
車
富津館山道富浦IC~洲崎神社(約25分)
電車・バス
JR内房線館山駅下車~JRバス洲崎神社前下車(徒歩5分)
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