館山城(たてやまじょう)は昭和57年に博物館として再建築されたものです。
館山城の建築は、1578年に里見義頼が築城を命じ建築されました。命じた理由は諸説ありますが、重臣が寝返るなどの謀反があり、岡本城での居城がむつかしくなったとされています。
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城主は、第九代里見義康と第十代忠義です。
里見義康は、もともと千葉県南房総市冨浦にあったとされる岡本城を居城としていました。
里見義康は、豊臣秀吉に「惣無事例」違反を問われたため、上総領を没収されたため1591年頃(天正19年)に館山城に居城を移したとされます。
上総から引き上げる際、多くの家臣を抱えるのに適している場所が館山城でした。
館山城は、もともと岡本城の支城として使われていて、流通の基地として館山城は重宝されていました。
豊臣秀吉の時代になると、勝手な侵略ができなくなります。そのため、自ら経済力を高めなければ領国を維持し支配することが困難だったのです。
そのため、流通の基地として重宝された館山城を居城としたとされています。
1600年(慶長5年)9月。関ヶ原の合戦で徳川側についた義康は、恩賞として3万石を加増され、12万石の大名となります。
しかし、3年後に亡くなり、わずか10歳の梅鶴丸が家督を継ぐことになってしまいます。
梅鶴丸は、将軍秀忠の御前で元服し、忠義と名乗り、家康の側近大久保忠隣の孫娘を妻に迎えました。
ところが、1614年(慶長19年)大久保忠隣の失脚事件に連座されて、里見忠義は、江戸城への登城禁止となり、館山城は召し上げられ、伯耆国(鳥取県)3万石へと減封され国替を言い渡されました。
しかし、到着してみると、所領は4000石に過ぎず、1617年にはその4000石も取り上げられてしまい、事実上流刑に等しい状況に追い込まれます。忠義は1622年(元和8年)に29歳の若さで亡くなります。
忠義には3人の男子がいたのですが、側室の子供であったため、家督相続が許されず、里見氏は滅亡しました。
里見氏が館山城に在城したのは、20年余だったのです。
幕府は、すぐに接収を終え、建物を破壊し、堀のほとんどは埋め立てられたのです。
館山城へのアクセス
交通機関を利用する場合
JR内房線 館山駅東口からJRバス(1)番線、または日東バス「館山航空隊行」で「城山公園前」下車 徒歩5分
館山駅からは徒歩約30分(2.2km)
車でアクセス
富津館山道路 富浦ICから約20分
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